くるま屋日本橋 〜人力車発祥の地〜
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車体の改良

海外で活躍した蒔絵人力車

創業当時の車体は4本の柱を立てて破風型の屋根をつけただけのものでした。次に丸みのあるダルマ型やチリトリ型といった幾つかの型が作られましたが、明治3、4年に秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が後年の祖型となったと言われています。これ以降は人力車の形に大きな変化は見られず、部分的な改良が主となっていきました。

車体の形が大体決まると、車体を絵や模様で装飾した「蒔絵人力車」が作られ、明治20年頃まで流行しました。獅子に牡丹や飛竜に波など、模様は実に様々でした。

蒔絵人力車

大阪錦絵新聞より
蒔絵人力車

しかし、これは車体番号が見えづらいことや、けばけばしい絵の描かれた人力車が道路上を走りまわる様が、外国人に対してみっともない恥であるとした政府側の判断により、明治19年に全国的に禁止されてしまいました。結果、これ以降国内では蒔絵人力車は見られなくなりましたが、製造は続けられ海外へ輸出されることになります。シンガポールやマレーシアのペナン地方では、蒔絵付きの人力車が営業用として喜ばれ、その絢爛さをのちまで競い合っていたようです。

車輪についてはそれまで木製であったものが、明治40年代を境にしてしだいにゴム輪に交代していきました。その最大の理由は、乗客からの乗り心地について要望があったためです。