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日本橋川の橋

橋の間隔は平均170m

日本橋川と亀島川には、現在、明治期の橋、震災復興事業により架けられた橋(復興橋梁)、これらを昭和30年代以降に架けかえられた橋、および最近架けられた橋の4種、29橋が供用されています。これらのうち、明治期の橋や復興橋梁を中心とする15橋は、それぞれに個性があり、日本橋川は橋の展覧会場といって過言でない橋梁景観を創っています。

今の湊橋

今の湊橋
昭和3年6月架設。
橋長40.5m、幅員8.5m。

江戸から明治・大正へ

日本橋川には、古くから多くの橋が架けられてきました。

江戸の頃には、もっぱら木橋が架けられました。 江戸は火事の多いところでした。明歴、行人坂、芝車坂の3大火を含めて、記録された大火は200件以上に及んでいます。 このため、江戸の橋には、火災による焼失の記録が数多く残されています。例えば、日本橋では、記録に残るだけでも12回を数えており、おおむね20年に1回火災のために架替えていたことになります。 江戸の橋は、こうした火災のほかに水害の被害も多く、絶えまない補修や架替が必要でした。

明治になると、橋の耐久化が図られました。まず、肥後の石工により、常磐橋(明治6年・1873年)や江戸橋(明治8年)に石造アーチ橋が架けられました。常磐橋は、今日までも歩行者専用橋として供用されており、東京で最も古い石造アーチ橋です。 明治44年には、橋の中の橋、日本の橋といわれる日本橋が架けられました。橋梁技術者、建築家、彫刻家の協力によるルネッサンス様式の装飾橋梁は、明治国家の威信を今日まで伝えています。 明治10年代に入ると、鉄橋が架けられようになりました。錬鉄製ラティストラス形式の高橋(明治16年・1883年)は、「原口 要」(東京府技師長)の設計による我国最初の国産道路橋です。以降錬鉄製ウイップルトラス形式の鎧橋(明治21年)、錬鉄製ボースとリングトラス形式の西河岸橋(明治24年)、湊橋(明治28年)などが、原口及び彼の部下であった「原 竜太」の設計により架けられました。また、彼らの設計により、鋼製の3ヒンジアーチ橋の江戸橋(明治34年)が架けられました。

大正に入ると、コンクリート系の橋が架けられました。まず、無筋コンクリートアーチ橋の新常磐橋(大正9年・1920年)があります。この橋は、第1次世界大戦の影響で鋼材が高騰したため、無筋とせざるを得なかったのでした。つづいて、鉄筋コンクリートアーチ橋の一石橋(大正11年)があります。これらの橋は、スパンドレルの石張り、親柱、高欄などのデザイン密度の高い装飾橋梁でした。

こうして、日本橋川の橋梁群は、皇居の東側には石橋、錬鉄橋、鋼橋、コンクリート橋などが、北側には木橋が分布する状況で昭和を迎えようとしていました。

震災復興橋梁の建設

大正12年9月に発生した関東大地震により、橋梁群のうち神田橋と一ツ橋が焼失して橋の機能を失いました。その他の橋については、常磐橋のスパンドレルの石組の一部崩壊、江戸橋のアーチクラウンの沈下、新常磐橋のコンクリート施工目地にクラック発生など、比較的軽微なものでした。これらの震害を踏まえて、内務省復興局及び東京市により、耐震・耐火橋梁を目指して様々な形式の橋梁が架けられ、川筋の景観は一変しました。

震災復興事業を急ぐ世論に応えて、復興局が考案した「復興局型」の一ツ橋や神田橋があります。

隅田川の永代橋とのバランスを考慮した豊海橋。 鋼桁橋では、アールデコ様式で装飾された西河岸橋、簡素な新川橋。 鋼アーチ橋で重厚なイメージを醸し出す江戸橋。 鉄筋コンクリートアーチ橋では、堂々たる石張りの常盤橋、オープンスパンドレルで素打ちの錦橋。 ユニークな例では、着工が遅れたため事業費の制約を受け、隅田川にあった旧両国橋の中央径間を再使用した南高橋があります。

これらの橋は、旧橋や架橋地域の歴史性と、架橋地点の地盤高、地質条件、川幅、船運状況など物理的条件への適合性から選定され、デザインされたものです。このため、それぞれの橋は個性的です。