観光・イベント・婚礼人力車は浅草浅草松武屋へ!人力車発祥の地、日本橋でも活躍中!
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☆★人力車の豆知識 【歴史】 ★☆
05年4月17日(日) 「京都・花灯路・2005」、人力車で祇園界隈を巡る舞妓さん。
2005年3月11日から21日まで「京都・花灯路・2005」が行われました。東山山麓に連なる北は青蓮院から円山公園・八坂神社を通って、南は清水寺までの散策路約4.6kmに、京焼・清水焼、京銘竹、北山杉磨丸太、京石工芸、金属工芸の5種類の「露地行灯(あんどん)」約2,400基が設置されました。そのイベントの一環として、京都・祇園の舞妓が人力車で祇園界隈を巡りました。曇り空ながら温かい一日となったこの日、人力車で祇園・歌舞練場を出発する舞妓さんたちへ熱い視線が注がれました。
人力車に乗る舞妓さん
人力車で南座の前を通る舞妓さん
05年3月27日(日) 萩市の中原省吾さん、人力車の資料館を企画してます。
 江戸時代の雰囲気が残る萩市で俥宿(くるまやど)を営む中原省吾さんが、人力車の資料館を作るため、明治、大正、昭和の人力車と人力車に関する古文書、衣装、写真(写真集)などを集めています。中原さんは、すでに明治時代と大正時代の人力車も入手しています。中原さんへの連絡先は下記の通りです。
俥宿 天十平   中原省吾 
758-0077山口県萩市南古萩町33-5TEL/FAX 0838-26-6474 
明治時代の人力車
中原氏が入手した明治時代の人力車
中原さんの大正時代の人力車
大正時代の人力車
05年3月8日(火) 萩市の中原省吾さんが、人力車の資料館を企画してます。

江戸時代の雰囲気がのこる萩市で俥宿(くるまやど)を営む中原省吾さんが人力車の資料館をつくって、人力車と人力車に関する古文書、衣装、写真などを展示したいという思いを持ち、すでに明治、大正、昭和の人力車や資料などをそろえておられます。 
また4〜5人で「江戸に遊ぶ」というイベントを企画して今年で3年目になります。古い人力車のありかをどのようにして知られたのか尋ねたところ、全国の博物館の学芸員の方や友人知人に手紙を出し、たえず交流されているとのことでした。
中原さんは、明治時代と大正時代の人力車を入手されています。以下、中原さんの手紙です。将来、人力車の資料館を開きたいと考えておりまして、人力車全般に関わることを調べております。つきましては、そちら様で分かり得る情報をお教えいただければ幸いです。
例えば、*人力車または車夫着・足袋等がある(古道具屋、旧家、博物館など)*昔、人力車を曳いていた人を知っている。作っていた人または会社を知っている。*乗っていた経験がある。*写真・新聞・浮世絵・おもちゃ・古文書などがある。 など、人力車に関することでしたら 何でも結構です。情報やご存じの方の連絡先が分かればお教えいただけないでしょうか。
俥宿 天十平   中原省吾 
758-0077山口県萩市南古萩町33-5
TEL/FAX 0838-26-6474 

05年2月13日(日) 急速に普及した人力車、明治29年国内で21万台に。
1870年(明治3年)3月17日、和泉要助、高山幸助、鈴木徳二郎の3名は、共同で「西洋腰掛台に小車取付」の一人乗り「人車」 の発明とその使用を東京府に出願しました。この出願は同22日に「人力車」という名前で許可されています。人力車は、それまで都市内交通手段として使われていた駕籠よりもはるかに速度がはやく小回りがきくので、おどろくべきスピードで東京市内に普及しました。
 実際、開業後わずか1年半で、それまであった市内1万の駕籠はすがたを消し、完全に「人力車」がそれに置きかわりました。
その後の普及もいちじるしく、1867年(明治9年)の東京府下の人力車台数は2万台を突破。
 人力車の時速も8キロから10キロまで向上し、あらたな高速都市内交通手段として全国にひろがっていきました。そのピークは1896年(明治29)で、当時の統計では日本国内の人力車の総台数は21万台になっています。
 この記事は、外国語になった日本語「人力車」より頂きました。
05年2月2日水曜日 人力車の発明によって、駆逐された駕籠や
人力車に駆逐された駕籠参議木戸孝允の後援で、明治ニ年、一八七一年五月に発刊された「新聞雑誌」創刊号によりますと、人力車の発明によって、駕籠やが駆逐された模様が次のように書かれています。
 「○東京市中諸職人ノ中、当時尤盛ナルハ軍服洋服ノ仕立屋ナリ。尤モ衰ヘタルハ駕(か)籠(ご)屋ナリ○東京人力車発明(明治二年)ノ当分ハ、駕籠商売ノ者ドモ種々ヤカマシク云ヒ、車引ヲ見テハ罵リ、ソシリタリシニ、当今ハ、人力車ノ数、日ニ増シテ二万五千ニ至レリ…」。
 関所などにより自由な通行ができなかった江戸時代の交通機関といえば、駕籠か馬しかなかったのが、明治維新とともに人力車など新しい輸送手段が次々と生まれます。 なかでも1869(明治2)年に発案され、翌年東京で開業した人力車は急速に普及し、東京では開業2年目に人力車は、早くも2万5千に達し、駕籠は、最盛期におよそ1万でしたが3分の1に激減したそうです。
この記事は、徳島新聞のサイトから頂きました。
人力車誕生と三重県の事情   05年1月10日  
昔の人力車力車が人々の乗物の花形として活躍したのは明治期で、「文明開化」の掛け声と共に誕生しました。明治2 年(1869)に東京の八百屋、鈴木徳次郎・車職、高山幸助・福岡藩士、和泉要助(いずみようすけ)ら3人が作り、翌3年東京日本橋で営業を開始しました。
 三重県では、明治5年、四日市で南町東新地の清太郎という人が東京から1台の人力を買い入れ、開業したのが始まりであったと言われています。 それまでの賀篭や馬に比べ、人力車の敏速さ・軽ろやかさが当時の人々を驚かせたことは言うまでもありません。人力車の人気は急速に高まり、県内では5年後の明治10年に4,000台以上が走るほどになっていました。明治14年県内で5,400台を超えた人力車は、それをピークに減少の一途をたどり、『県統計書』によれば、大正5年(1916)はその半分の2,500台、そして昭和15年(1940)に161台昭和25年に26台の登録台数となっています。
明治・大正を走り続けてきた人力車も、その座を自転車や自動車に明け渡したのです。 しかし、人力車は、現在、観光資源として、また、各種イベント、結婚式などのお祝い事の時の縁起の良い乗り物として、人気急上昇中です。
このデータは、「文明開化」と人力車の盛衰」より頂きました。
大牟田市役所新築落成記念の人力車によるパレード 04年12月29日
人力車のパレード写真は、1921年(大正10年)、大牟田市役所新築落成記念の人力車によるパレードです。
人力車パレードの背景にある店舗の看板には、『ウドノ薬局』と『米国直営 シンガーS(シン ガー裁縫ミシン)裁縫機械会社 大牟田支店』とあります。 薬局は右から読むように書かれていますが、ミシン会社は左から読むように書かれており、人力車とともに、時代を感じさせます。
 このころ、市内の乗り物の数は、馬車96台、人力車131台、自転車1568台、自動車8台、荷車1411台となっています。
この情報は、大牟田のあゆみ(歴史年表&歴史写真)から頂きました。
 
人力車が未だ健在の街、インドのカルカッタ(=現コルカタ)。2004年12月15日
 人力車は、日本が発祥の地といわれ、今なお、浅草や鎌倉などの観光地で観光客向けに営業されてはいるものの、生活の足と して人力車が未だ健在である街は世界広しといえど、インドのカルカッタ(=現コルカタ)のみようです。
 しかし、そのカルカッタといえども、1999年以降人力車の新規台数登録が停止されました。交通渋滞解消のためです。カルカッタ市は、渋滞解消を主目的に、着工から20有余年かけてインド初で今のところ唯一のメトロ(地下鉄)を全線開通させましたが、市内 は、手押し車や牛車なども依然健在で、人力車の新規台数登録停止が渋滞解消には繋がってはいません。
なお、人力車の新規台数登録が停止されたとはいうものの、既得の許可証の効力は生きています。従って許可証を持っていれば続的に人力車を所有することも出来ますし、また新規生産をすることも可能です。
 このため人力車の許可証は裏では高値で売買されています。現在も約6000台の人力車がカルカッタ市内で営業中です。つまり 6000枚の人力車許可証が存在するということです。
この情報は、「インドの国内交通、人力車編、小林」から頂きました。
明治時代のお話し、人力車の車夫の食事と体力
 エルウィン・フォン・ベルツ(注)が明治の初めに、ドイツから来日し、人力車の車夫の体力に驚いたことが記録に残っています。
 東京から日光までを馬の場合は、途中で馬を6回取り替えて14時間かかったのに対し、人力車の車夫は同じ距離を1人で14時 間半で走りました。
 そのことに驚いたベルツは人力車の車夫の食事を調べました。その結果、栄養学とはかけ離れた食事を摂っていたので栄養学に 添い肉などを与えました。栄養学に添う食事は人力車の車夫を3日で疲れさせ走れなくさせました。そして元の食事に戻すと元のよ うに元気に走れるようになったそうです。肉を食べない日本食の方が体力がつくという実例です。
(注)ベルツ=ドイツの医学者。明治9年に東京医学校(現在の東京大学医学部)に招かれ、同38年まで日本に滞在、わが国の近 代医学の発展に寄与した。日本にドイツの栄養学も紹介。
以上、「エコロジカル・ヘルシーショップ三友」から頂きました。
人力車の板ばね  2004年11月30日
 人力車には板ばねが装着されていますが、最初に人力車に板ばねが装着されたのは、18世紀の半ばヨーロッパにおいてのよう です。ただし、ヨーロッパの人力車というのは日本の人力車とは違うのではないでしょうか。日本で人力車用板ばねが作られたのは 明治3〜4年のことです。以後、専業のばね製造業者が誕生しています。
 中野寅吉という人が人力車用板ばねの製造を目的に明治4年に中野スプリング製作所を創業しています。中野スプリング製作所 は、今も、中野スプリング株式会社として盛業中です。明治4年は、1871年ですから、この会社は、今年創業133年になります。
たいしたものです。
 この会社のご挨拶に「私どもの会社は、1876年(明治9年)東京芝にて人力車用板ばねを製作し云々」とあります。

人力車の歴史 2004年11月15日
人力車は、日本で生まれたものです。筑前(佐賀)藩に和泉要助という人がいました。殿様の参勤交代に従って江戸へ出てきた要助は、異人馬車の軽快な走りに感心し、馬の代わりに人が引いたらどうだろうかと考えました。 1870年3月(明治3年)士族出の要助は、維新後の落胆士族を使って人力車商売を開始したのです。 士族って武士です、侍です。時代の移り変わりって残酷なものです。そんなわけで和泉要助が名付けた世界初の人力車会社は「御免人力車処」といったそうです。 営業開始後非常に流行り、その数年後には東京だけで4、000台もの人力車が走っていたそうです。浅草を主な舞台として活躍する人力車の松武屋をご贔屓に。
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